新渡戸 十次郎(小阪 圭二 作) 制作 平成元年
新渡戸傳翁が日本初の内陸型巨大農地開発を三本木で着手した二年後、子の十次郎は、下北半島沿岸での北辺警備の台場築造を終え、その開拓を父に代わって務めます。
四年後、小川原沼と陸奥湾を運河で結び、江戸との交通を飛躍的に改善しようと、約四町(432メートル)掘り進んだところで江戸勘定奉行になり、この事業は中断します。今から百五十七年前に考え、実行しているのです。その才学兼備で先見型指導者が、48歳の若さで世を去ったことは惜しまれます。子の稲造が「学問より実行」と言っている。そんな十次郎の生涯だったのでしょう。
安政四年、十次郎はマラリア性の熱病にかかります。 源氏物語に、十八歳になった光源氏が、わらわやまいにわずらい給いて・・とある「童病み・震い病い」です。光源氏と同じ病気と考えてこのブロンズをみると、私たち十和田市民の光源氏が十次郎だったとも想われてくるのも、おもしろいことです。
クリスチャン小阪圭二の作品は深い祈り、人生の先駆者誰もが持つ苦悩を乗り越えた安らぎの心を表現して巧みですが、一面、平和な未来を願い、若い情熱を静かに秘めて立つ若者像にも優れた作品を遺した作家の一人でした。
「作品の解説」(解説文は、市民文化センター元館長 今純一郎氏)
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